を内容とする93年のウルグアイ・ラウンド合意につながる。
60年代には年4000万トンほどだったアメリカの穀物輸出は74年の世界食糧危機を契機とした農業保護の強化を反映して増加を続け81年にはピークの1億1270万トンに達した。アメリカの農業財政支出は79−81年を基準にして85年に名目で2.2倍、実質額で1.7倍に急増した2)。しかしその後過度の国内保護、ドル高、そしてECの穀物輸出の急増を受けて80年代中期まで穀物輸出は急減し、70年代中期の5000万トンほどだった穀物在庫が86年には2億トンほどに急増した。在庫の増えた農産物はバターが75年に5万トンであったのが84年に23万トン、脱脂粉乳が20万トンから64万トンヘ、小麦は1180万トンから3810万トンヘ、粗粒穀物が1550万トンから3170万トンヘ、3)コメは86年に国内生産量の半分程度の250万トンと大幅に増えた。国内農業の保護と過大な農産物在庫を輸出補助するための財政支出が急増した。これら問題に対処するため85年農業法により、50/92政策による作付けの弾力化ないし削減の始めての導入、目標価格やローン・レートの国内支持価格の引き下げ、1,800万ヘクタールの高度浸食危険地域をヘクタール当たり121ドルの年地代の補助により生産から引き上げる土壌保全政策(CRP)など生産制限の強化、マーケッティング・ローンの導入により穀物輸出原価を国際価格水準に引き下げる新しい補助金が導入された。マーケッティング・ローンを除くこれら生産制限政策は90年農業法で、作付けの弾力化の拡大や農民への不足払い補助金の計算基礎である政策単収の固定化などでさらに強化された。そしてこの保護削減・過剰抑制は93年のウルグアイ・ラウンド農産物貿易合意へ引き継がれてゆく。
以上のような欧米の農業政策の転換は、図2が示すように世界の先進諸国(欧米がこれら諸国の食料輸出の大部分を占める)と途上諸国との両地域の間での食糧の純輸出量の長期傾向の80年代後半からの逆転にも明確に認められる。同図では両諸国に関してFAOの魚を除く食糧(以後食糧と呼ぶ)の名目輸出入額を4)FAOの66年基準の農産物輸出入価格指数でそれぞれデフレートして差を取り、食糧の純輸出量を示している。60年代から70年代初期にかけて食糧を純輸入していた先進諸国が、70年代中期の食糧危機を契機とした主として欧米の農業保護の高まりと過剰生産とそのダンピング輸出により77年に純輸出し始め、その後80年代前半にかけて純輸出量を急増させた。
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